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【120枚】〜湯けむり温泉旅〜 紺染 町子【大ボリューム！】|d_586444| 昭和五十三年の初夏、錆びたバスが終点の坂を喘ぎながら登りきると、紺染町子は薄いトランクを抱えて降りた。硫黄を含んだ湯気が路地を漂い、赤提灯の灯りがまだ淡い陽射しの中で虚ろに瞬いていた。アスファルトは長い歳月を耐えてひび割れ、温泉街全体がまるで古い8ミリフィルムの粒子のようにざらついて見えた。町子は、すれ違う誰の目にも留まらない速度で歩き、たった一泊分の宿を取った。 宿の女将は、ラジオから流れる山口百恵の声に合わせて鼻歌を口ずさんでいた。町子が「ひとりです」と言うと、女将は少しだけ眉を跳ね上げたが、すぐに帳場の黒電話に視線を戻した。その無関心さに、町子は逆に安堵した。誰にも深入りされず、誰も彼女の底を覗こうとしない。それこそが今夜必要な空気だった。 夜八時、檜風呂の湯面は淡い電球色を反射して金属質にきらめいていた。町子はゆっくりと肩まで沈む。湿った静寂が耳を塞ぎ、鼓動が響く。そこでようやく、彼女は自分が何を考えに来たのかを確かめた――十歳上の元恋人、製薬会社に勤める、三島宏樹。二十代後半にしては少し疲れた背中、酔うと頬を撫でる癖、少し高価なジッポ。町子はその甘い匂いに身を溶かすように恋をした。だがある夜、宏樹のワイシャツのポケットから赤い口紅が転がり出た瞬間、世界は反転した。唇を噛み、血の味を覚えながら、町子は静かに別れを告げた――「あなたの匂いは、もうわたしの体に沈まない」。 湯気の向こうで蛍光灯がジリと鳴る。町子の胸の底に沈殿していた渦――執着、嫉妬、憎悪。浮気相手の女の顔すら知らないのに、その女の爪が町子の皮膚を裂く夢を何度も見た。夜毎の悪夢は紫色の吐息を残し、明け方の寝汗は冷たく布団を濡らした。宏樹の声が、あの女のあえぎ声と絡まり合って耳朶にへばりつく。ラジオから流れるキャンディーズの「微笑がえし」が彼の車のカーステレオを思い出させるたび、町子はトイレに駆け込み吐いた。 熱い湯に浸かりながら、彼女はふと天井の節目を数えた。十、二十、三十。節目は生木の瘡蓋のように並び、彼女の傷と重なった。その時、胸の奥で何かが静かに割れた。憎悪は淀んだ沼ではなく、刃物のように研がれた凶器へと変質した。誰かを切りつけなくては、自分の内側が裂けてしまう。だが誰を？ 宏樹か、その女か、それとも自分自身か。 風呂を出ると、廊下の奥から古いピンボール機の弾ける音が聞こえた。町子は浴衣の帯を固く締め、裸足のままゲームコーナーへ向かった。ネオンが瞬き、タバコの煙が薄く渦を巻いている。サラリーマン風の男がビール瓶を片手に、パチンと銀玉を弾いた。その横顔の角度が、宏樹に少し似ていた。町子は無言で隣の台に十円玉を差し込み、レバーを引いた。銀玉が弾け、チリチリと鈴のような音が跳ねる。だが目に映るのは盤面ではなく、あの夜、赤い口紅が床に転がるスローモーションだった。 「頑張るね、嬢ちゃん」 隣の男が笑った。町子は振り向かず、「当たるまでやめられないの」と呟いた。湯上がりの頬が熱いのか、怒りで火照るのか区別がつかなかった。玉ははじかれ、穴へ落ち、男の笑い声が混ざる。そのたびに、町子の中の刃物が砥石で研がれる。やがて台のランプがすべて消え、コインを呑み込んだまま沈黙した。町子は台を離れ、瓶ビールが並ぶ自販機で指を濡らした缶コーヒーに滑らせた。甘さが喉を焼き、胃の底へ落ちる。 深夜一時、布団に身を投げると、畳の匂いが子どもの頃の夏休みを呼び戻した。蚊取り線香、祖父の自作ラジオ、夜店の裏で聞いた大人たちの溜息。町子は天井の染みを辿りながら、自分がどこで道を踏み違えたか考える。そして思う――もし宏樹の首筋を、この手で掴んでしまったら、わたしは壊れてしまうだろうか。だが壊れなければ、ずっと闇は内側で腐り続ける。 夜明け前、遠くで始発のバスがエンジンを唸らせた。町子は浴衣のまま玄関に降り、まだ薄暗い坂を歩き始めた。肌寒い風が頬を撫でる。温泉街の灯りは消え、路地の水たまりに空の色が滲んでいく。手に提げたトランクは軽い。中身は着替えと、乾きかけの執着だけ。町子は立ち止まり、振り返った。灰色の湯気が屋根の合間から立ちのぼり、どこにも行き場のない魂のように漂っている。 「さようなら」と小さく唇が動いた。だが誰に向けてか分からない。町子は再び歩き出す。坂の向こうに薄桃色の朝日が覗き、昭和の匂いを残す街並みを染めた。その光は、刃物のように冷たく、同時に生温かい。町子の胸の奥で、研ぎ澄まされた憎悪が陽の光にさらされ、微かに蒸発していくのを感じた。声なき叫びが、湯煙と共に空へ溶けていった。